[砂海の花] 2006/11/19 update
(2)
 アルティアナは、カナザハルの西に位置する、草原と砂漠の国だった。
 肥沃で広大な草原は、かつては六十万を超える遊牧・移牧民を養って余りあるほどであった。
 しかし今、アルティアナは病んでいる。
 ここ数年続く慢性的な干ばつの為に、草原地帯の砂漠化が激しいのだ。一説によれば、緑地の三分の一が砂漠に消えたという。
 今も砂漠化が進行している草原に、人々の生活を支えるだけの恵みがあるはずも無かった。しかもアルティアナは、四方を砂漠に囲まれた僻地である。砂漠化で土地を追われ難民となった人々は、他国に流れようにも砂漠を越えることが出来ず、成す術もなく餓死するか、妖魔の餌食になるしかなかった。
 たちまちアルティアナは大飢饉に陥り、更に癩までもが流行し、最終的な死者は四十万にも達した。
 特に都市部では、難民と化した遊牧民が流れ込んだことで治安が悪化し、また大量の難民に対処しきれず行政が崩壊する地域も少なくなかった。結果、本国カナザハルとの連絡網は途切れ、アルティアナの内情を知る事すらままならぬ状況であった。
 この深刻な事態を受けたレドヴァ王は、アルティアナへ救援軍を派遣することを決定した。しかし、事前視察の為に先行投入されていた先遣部隊の一つが、暴徒と化した現地難民に襲われ壊滅したことで、救援軍本隊の派遣は取り止めになってしまう。
 その壊滅した第二先遣隊カールトバーク中隊に、イダスも参加していた。

 カナザハルとアルティアナの間には、<還らずの砂漠>エレーモスが横たわっている。第二先遣隊の目的地である交易都市サウンナールは、このエレーモスの真中にあり、第二先遣隊は厳しい砂漠越えの行軍を強いられていた。
「ここにいたのか、イダス。探したぞ……一人で出歩くなと言っているだろう」
 照り付ける真昼の太陽の下、一人で砂漠に佇むイダスに声をかけたのはダジルイートだった。砂漠越えの案内人として雇われた彼は、エレーモスを知り尽くしている砂漠の民<竜の番人>であった。
 ダジルイートは背丈2メートルを越す大男だった。青と白を基調とした独特の民族衣装を纏い、目にも鮮やかな橙色の長剣を始めとした、四本もの刀剣を両腰に帯びている。
「日が沈んだら、一晩中歩かなきゃならないんだ。今夜中にリドヴィナ渓谷まで進まなければならないのだから、夜に備えてもう休め」
 そういってダジルイートは、砂丘の陰に張られた天幕を指差した。砂漠の行軍では昼に休み、夜に歩く。灼熱の世界と化す昼に日の下へ身を晒すことは、自殺行為に等しいからだ。
 しかしイダスは、まるでダジルイートの声など聞こえていないかのように、直立不動のまま立ち尽くしている。その視線の先を追ったダジルイートは、イダスの心中を察してその肩を叩いた。
「……いいか、イダス。砂漠で野たれ死んでいった連中に、情けをかける必要は無い。このエレーモスを身一つで越えられないなど、アルティアナの人間ならば誰でも知っていることだ。全ては当人らの自己責任だ」
 その言葉に、イダスの体が僅かに震えた。一度深く項垂れてから、ゆっくりとダジルイートを見上げる。砂漠の行軍という極限の環境に身を窶し、げっそりと痩せこけた少年の頬には、涙の跡も新しい。その瞳は、あまりに深い悲しみに塗り潰されていた。
 今、彼らの目前に広がる荒涼たる黄金色の砂漠には、点々と黒いゴミのようなものが散在している。それらは全て、砂漠を越えようとして命尽きた、難民達の成れの果てであった。
 イダスは言った。
「……エレーモスが魔の地だってことは、知っていた。だけどここまで、こんなにも酷い土地だとは思ってもみなかった。砂漠に入って二週間が経つのに、今まで一人として生きた人間を見たことはない。見たものは全て、妖魔に食い殺された死体だけだ。それも、サウンナールに近付くほど多くなっている」
 邪竜が住むという、凶悪な妖魔が跋扈するエレーモスを超えることは容易なことではない。もしも力無き者、知恵無き者がエレーモスに立ち入れば、たちまち妖魔に食い殺されてしまう。そう聞いてはいたが、実際に妖魔に食い殺されたおびただしい量の死体を目の当たりにすれば、想像以上に凄惨な現実に打ちひしがれるしかなかった。
「エレーモスが身一つで越えられる安全な場所ならば、俺のような砂漠の民など存在していないだろう。エレーモスで生き抜くには、俺達<竜の番人>が先祖代々受け継いできた特別な知恵と武器が必要なんだ。それ無くしては、どんな立派な軍隊だって妖魔の餌食になるだろう。それこそ難民に越えられるものではない」
 淡々としたダジルイートの声が、耳に痛い。
 先遣隊が今まで妖魔の襲撃も受けず、無事にエレーモスを横断できているのは、十分な水と食料、そしてダジルイートら竜の番人を雇うだけの資金があったからだ。それでも砂漠の行軍は厳しい。何も持たず、飢えと恐怖の中でエレーモスに入った難民らの辛苦は、いかほどのであったのだろうか。
 その事を想い、イダスは己の考えの甘さに唇を噛んだ。
「この地に、俺の求めるものがあるのだろうか……俺はこの地に、それを求めても良かったのだろうか」
 ぽつりと呟く。
 それは周囲から猛反対を受けながらも、イダスが自ら先遣隊に志願した理由でもある。
「聞いてくれ、ダジルイート。俺はここに、飢えに喘ぐ難民を助けるため来たのではない……もっと身勝手な理由で来た」
 心に秘めて置くはずだった本心を告白するのは恐ろしい。怪訝な視線を向けるダジルイートに怯みそうになりながら、イダスは言葉を紡ぐ。
「俺には、誰かを助けたいなんて崇高な気持ちはただの一片も無い。俺はただ、大事な人を護れなかった罪滅ぼしがしたかっただけなのだ。アルティアナで難民を助ける事が出来れば、それが叶うと思った」
 彼の目的は唯一つ、死の一週間が残した辛い現実から、そして心の奥底に巣食った罪悪感から逃れる為だった。
 王軍に屋敷を襲撃されたあの日、イダスは弟のエルーダと共に剣を取って戦った。
 しかし子供の力で、屈強の戦士達に叶うはずがない。
 たちまち二人は斬り捨てられ、助かったのが奇跡であるほどの重傷を負ったのだった。
 イダスは二ヶ月で意識をとりもどしたが、弟は未だに意識すら回復していない。
 そしてイダスが昏睡していた間に、彼が生涯をかけて仕えると誓った、親友のロスナン皇太子も殺されてしまっていたのだ。
「生きる希望を無くしたんだ。そう思った……どうにかして、取り戻したかった」
 ロスナンの死を知った時に襲われた絶望の病は、今もイダスの心をじわじわと侵していた。
 イダスは苦しんでいた。自分だけが生き残ってしまった罪悪感に。その心の闇を抱え続ける事に。
 純粋で生真面目過ぎる故に、イダスは生き長らえた幸運を、素直に享受することが出来ないでいた。
 だからこそ彼は、アルティアナへ行く事を決めたのだ。己の心の傷を埋める為に。死に瀕した難民を、護れなかった大事な人々の代わりに助ける事で。
 そんなことをしたところで、死んだ人々への償いにはならないだろう。しかし、自分自身に対する言い訳は出来る――
 自分がどれだけ無意味なことを、見当違いなことをしようとしているのかは分かっている。けれども、あまりに深く抉られた心の傷は、たった今も癒される事を求めて疼いているのだ。じっと動かずに耐えることもまた、イダスには出来なかったのである。
 しかし――
「とんだ偽善の上に、道を誤ったな。せいぜい砂漠で野垂れ死なないように気を付けな。ここは人間の立ち入って良い場所ではない。他者に施しをする余裕はないぜ」
 侮蔑の声色を隠そうともしないダジルイートの言葉に、イダスは項垂れるしかなかった。
 彼の言葉は正しい。この魔の地では、イダスは自分自身の命すら護れない。誰かを助けてやれるだけの余裕を、そもそも持っていないのだ。
「だがな、ここまで弱音を吐かずに歩いてきた、お前のその根性はなかなか見上げたもんだぜ。折角ここまで来たんだ、何かを得て還るといい。何を得られるかは、お前さん次第だ」
 そう言ってダジルイートは、イダスの頭を乱雑に撫でた。目深に被ったフードから、緩やかにウェーブする長い金髪が一筋零れ、風に靡く。
「これから難民の巣窟に突入する訳でもあるし。お前の目的が叶うことを祈ってるぜ……そうだ、今のうちに渡しておくか」
 独りごちながら言葉を切り、ダジルイートは腰から一本の中剣を引き抜いて、イダスに押し付けた。
 戸惑いながらも受け取ったその中剣は、装飾も何も無い質素なものであった。モノは良さそうだが古さは誤魔化しきれず、傷だらけの鞘はいかにも汚らしかった。
「貴族のお前さんには似つかわしくないがな……まぁ、抜いてみろ」
 言われるままに抜刀すれば、よく磨かれた美しい白刃が姿を現した。何の変哲も無い凡庸な中剣であったが、鞘を払うと羽のように軽かった。その頼りないまでの重量に驚きダジルイートを仰ぐ。
「その剣は軽いから、子供でも楽に扱えるだろう。お前にやるから、これからは常に身に着けておけ」
「ありがとう。でもどうして……俺に?」
 そのイダスの問いかけに、ダジルイートが答える事は無かった。

©Sumon Ieru