![]() [砂海の花] 2006/10/28 update (1) これは、少年達の出会いと再生の物語―― キエルの花の盛りは長い。 春から初夏に渡り、実に二ヵ月も咲き続ける。 それはカナザハルの気候が比較的温暖で、穏やかであるからだ。 ウルピウス暦二八〇年 二の月 二十九日 神聖イプラゼル皇国 本州カナザハル 王都ノーティス郊外 ハティヴァ公爵邸 「女子供は地下牢へ退避させろ。男は剣を取り、正面玄関へ急げ! 不審者は斬り捨てて構わん!」 ハティヴァ公爵ムルトの怒号が大回廊に響く。混乱し、騒然とした館では、大量の使用人が恐怖に顔を引き攣らせて右往左往している。 ムルトは苛立たしげに窓の外に視線を遣った。 本来ならば、満開に咲き乱れた白く可憐なキエルの花々に飾られ、さながら雲上の如く美しい前庭が広がっているはずである。しかし今は、ムルトの私兵と王軍の激しい戦闘が繰り広げられる、修羅の戦場と化していた。 ならず者達に無残にも散らされ、蹂躙され、流された不浄の血で赤く染めあげられていくキエルの花は、そう遠くないムルトの未来を暗示しているかのようである。 何故こんな事になったのか、ムルトには分からなかった。 たった今、屋敷を襲撃している賊は、レーベ王からムルト処刑の勅旨を賜った正規王軍である。ムルトは皇国を陥れんとした逆賊として、一族もろとも粛清されようとしていた。 勿論ながら、その罪は身の覚えの無いものである。否、始めからそこに真実などないのだろう。 今朝、王宮で反乱が起こった事はムルトも周知の事実である。その首謀者が、他ならぬレーベ王自らだということも。 王宮の王族達は、既に全員処刑されたらしい。王都ノーティスでは、王軍が市民を蹂躙しているとも聞く。 「レーベよ……一体何があったというのだ……」 レーベの宰相として、盟友として仕えてきたムルトには、何もかもが受け入れ難かった。慈悲深く、聡明で賢王の誉れも高かったレーベの突然の豹変の心当たりが無い。 だが、現実としてムルトは粛清されんとしている。今は私兵が応戦し、なんとか食い止めているが、状況は数で勝る王軍に優勢であった。屋敷に侵入されるのも、時間の問題だろう。 ムルトは唇を噛み締めた。恐らく、己の命が助かることはないだろう。だが妻と子だけは護らねばならない。 しかも妻のフィリトは、今まさに陣痛を迎え、子を産もうとしているのだ。 恐怖と不安の中、地下牢で子を産み落とさんとするフィリトの心境は、いかほどのものだろうか。 春の日差し、満開のキエルに祝福されて生まれるはずだった我が子は、罪人でもないのに、薄暗い地下室をその産屋にしようとしている。 どうして、こんなことに。それを考えるだけで、やり場の無い怒りとやるせなさに剣を握る手が震える。 悲愴な想いで、ムルトは瞑目する。例え無駄なあがきになったとしても、むざむざ殺される事になったとしても、一人でも多くの兵を斬り、妻子が助かる可能性に繋げたい。 外から響いてくる剣戟は、激しさを増しながら近付いてくる一方であった。ムルトは決心して歩き出す――自らも戦列に加わるために。 連日続いた突然の春日は、この日にキエルの花を狂い咲きさせるに至った。そして、季節外れの白い花が咲き乱れる中で、死の一週間の惨劇は幕を上げた。 国内外から賢王の誉れも高かったレーベ王が引き起こした、死の一週間――それは粛清の名の下にレーベ自らが三千の軍を率い、王都を蹂躙した事件である。 死の一週間は、現在の皇王レドヴァと、宰相ハティヴァ公爵ムルトに誅殺されるまで、文字通り七日間続いた。これにより三十万を数えていた王都の人口は半減し、主だった王族貴族も死に絶えた。 この混乱の最中、ハティヴァ公爵ムルトの妻フィリトは、地下牢で男児を出産した。 ラファスと名付けられたその赤子は、まだ首も座らぬうちにレドヴァ王の養子として王家に入り、皇太子に冊立されるのだった。 ――それから一年後 ウルピウス暦二八一年 五の月 七日 カナザハル ハティヴァ公爵邸 盛りを過ぎ、強い季節風に散らされていくキエルの花吹雪の中を、一台の箱馬車が通り過ぎていく。客車には一人の少年が乗っており、車窓から外の風景を、期待と不安の入り混じった眼差しで見つめていた。 広大な前庭に咲き乱れる白いキエルの花――その先に佇む白亜のハティヴァ邸は、まるでお伽話の城のように美しい。今日からあの屋敷に住むのだと思うと、目が眩む。 少年は、未曾有の大飢饉に見舞われた、アルティアナの災害孤児であった。国家にも神にも見放された彼は、灼熱の砂漠の只中で、孤独と絶望に両腕を取られ死に行く運命にあった。 しかし少年は、奇跡的に救出された。そして彼の与り知らぬところで、皇国の実力者ハティヴァ公爵ムルトの養子になることが決まったのだ。 これからの少年には、貴族としての地位、何不自由ない生活と、輝かしい未来が約束されている。それは砂漠の片隅で、ほんの僅かな恵みにしがみついて生きてきた貧しい故郷では考えられない、夢のような話であった。 誰もが羨むその僥倖――しかし、飢餓と癩病に食い尽くされた故郷を、貧困と飢えの苦しみの中で死んでいくしかなかった親兄弟を想うと、考えまいと決めていた罪悪感に身を焼き尽くされそうになる――自分だけが生き残ってしまった罪悪感に。どうして自分だけ生きているのかと。 少年は頭を振った。生き延びた事を恥じてはならない。それは死者に対する冒涜に等しい。 少年は再度、窓の外へ目を向ける。今度は、強い意志を孕んだ眼差しで。 少年の名は、ラーズ・アファルト=ハティヴァ。 後にゼフェルドータ=ユリウスとして十賢者に名を連ねた偉大な神学者も、今は未だ、己の身の無力さを憂いて震える、十五の儚い少年であった。 時は再び遡る―― ウルピウス暦二八〇年 十の月 四日 神聖イプラゼル皇国 属州アルティアナ エレーモス砂漠 レドヴィナ渓谷 どこまでも深く、ただ青い空。対照的に陽に炙られた大地は、鮮やかに黄色い。 容赦なく、殴りつけるような灼熱の日射に慈悲はなく。乾ききった熱風に身を焼き尽くされそうになる。 少年は一人、切り立った岩山の頂上に立っていた。 気を抜けば吹き飛ばされそうになる強風の中、己の足で土を踏みしめ立っていた。 外(ミシ)衣(ュラー)が強風に煽られて、ばたばたと煩くはためく。凶悪な風圧を孕んで、少年を懸崖から突き落とそうとする。何度も、何度も。 少年は絶望にやつれた光無い眼差しで、眼下に広がる荒涼の大地を嘱目した。聞こえるはずの無い悲鳴が、咆哮が、断末魔が――己を呪詛する言葉無き叫びが蘇り、耳を塞いで倒れこむ。 今日この国で、どれだけの人間が死ぬのだろうか。 たった今にも、何の罪もない無辜の民が、国家に神に見放され、飢えと癩に苦しみもがいて死んでいく。 今日この国で、どれだけの人間が殺されるのだろうか。 法も秩序も消えうせて久しいこの大地では、病魔に命を冒された人々が、人ならざるものと化してヒトを襲う。 今日この国で、どれだけの人間を斬り捨てたのだろうか。 救いの手を望む人々は、その手を少年が持ち合わせていない事を知るや否や、暴徒と化した。 殺した。たくさん殺した。 殺さねば、殺されていた。 己の命を護る為に、止むを得なかった。 だけど―― 涙に歪む視界は、血に塗れた手を映す。 赤い血の色に呼び出されるかの如く、少年の脳裏に、遥か遠い故郷での悲しい記憶が蘇る。 それは、死の一週間の記憶だった。 母を護る為、彼は幼い弟と共に剣を取り王軍の兵士らと戦った。 しかし弟は一撃で切り伏せられ――少年も、一人の兵士すら斬ることなく凶刃に倒れた。 あの時、無力にも床に転がった自分は、母の元へ駆け出していこうとする兵士に縋り付くことしか出来なかった。 それすら一瞬で振りほどかれ、再度床に崩れ落ちる――磨きぬかれた大理石の床には、死に逝く己の顔が映し出されていた。 その無機質な、奥底に死への恐怖を秘めた無表情な顔が、網膜に焼き付いて離れない。 今日、己が斬り殺した人々も、同じ顔で己を見上げていた…… 死への恐怖、絶望、流した血への奪った命への罪悪感で彼の心は狂いそうだった。 少年は震えながら、たった一つの言葉を、狂人の譫言の様に繰り返す。 死にたくない、死にたくないと。 少年の名は、ハティヴァ子爵イダス。皇国の重鎮ハティヴァ公爵ムルトの嫡子である。 後に皇国宰相となる彼も、今は未だ、己の犯した罪に立ち向かう力すら無い、十四のか弱き少年であった。
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